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TITLE : 雰囲気ばかりは読めない

 
ぜんぜん能楽の話にはならず、大学におけるアカハラ問題、セクハラ問題などについて、シビアな情報交換が行われる。こういう事件は当事者間に双方向的な対話の回路が確保されていれば起こりえないことである。私たちの日常的なコミュニケーションはほとんど無限の誤解の可能性に満たされている。
 誤解している人が多いが、コミュニケーション能力とは、そのつど政治的に最適な言葉を正しい統辞法に従って語る能力ではない(そのような能力を備えた人はほとんどの場合「私はそのつど政治的に最適な言葉を正しい統辞法に従って語る能力のある人である」という以上の内容のメッセージを発信していない)。
 そうではなくて、コミュニケーション能力とは、「よく意味のわからないメッセージ」を前後の文脈から、相手の表情から、音調やピッチから、みぶりや体感から推量する能力のことである。
 言い換えれば、「コミュニケーションにおける誤解の幅を許容範囲内にとどめておける能力」のことである。
「言った言わない」とか「そんなつもりじゃなかった」とかいう種類の話が行き交うというのは、当事者間で「誤解の幅」についての適正な相互了解が成り立っていないことの結果である。「誤解の幅」についての相互了解が整っていれば、極端な話、相手の話が聴こえなくても、コミュニケーションには何の支障もないのである。アカハラ問題、セクハラ問題ある種の「コミュニケーションの病」と考えるべきだろう。
 それが頻発するようになったというのは、別に社会組織がいきなり邪悪なものになったということではなく、社会人のコミュニケーション能力が低下しつつあることの症候なのだと私は思う。だから、「自分の身に何が起こり、自分はいまどういう状況の中に置かれているのか」をまわりの人たちに、短くわかりやすいことばで説明できる人は、こういう問題にめったなことでは巻き込まれないのである。


内田樹のブログより

内田樹は実は「うちだたつる」と読む。
でも、僕は口語では「うちだいつき」と呼ぶことにしている。
どうしてかというと、友人に内田樹を紹介する時、
「うちだいつき」は語感がよく本屋でも見つけやすい。
たぶん、直感的に「うちだいつき」と認識してる人が
読者の90%くらいではないかと。

でも、たまに
「石川さん、これは“いつき“ではなく“たつる“ですよ。老婆心ながら」
って人がいる。

それもそれでいいのかも知れないけれど、
「誤解がある前提」を考えると
「いつき」という言葉を使い続けないといけない。
誤解の振れ幅を考慮した上での発言をしなければならない。

そう考えると、インターネット上のコミュニケーションなんて
読者の思想も宗教も年齢も性別も知的レベルも
全て無視して書いていやしませんか?

この文章の読者は少なくとも想定した個人が存在する・・・はずである。

それとは別に
最近「言った、言わない」のモメ事があった。
そんなこと言った記憶はない人とそんなことを聞いた記憶はない人。
おそらく、どっちの存在も無意味だ。

少なくともどちらかにコミュニケーション能力がないことは確かだ。

「伝える力」「聞く力」のどちらかが足りないと
明らかにコミュニケーション不全が発生する。

ただ、こういった状態で一番、問題なのは自分の否を認められない人。
相手が悪いということで自分を正当化したことで喜んでいる。
そうして、本質的な問題に向かい合えていないこと気づかない。

某コンサルタントの真似をすると

「お前はもう死んでいるっ!!」
posted by Kohei Ishikawa  [ 思想 ]  comments(0) trackbacks(0)

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