TITLE : スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

posted by スポンサードリンク  [ - ]  - -

TITLE : The Next Global Stage

大前研一のThe Next Global Stageが翻訳され「新・経済原論」として出版された。

1987年の「新・国富論」

大前研一の新・国富論
大前研一の新・国富論

1995年の「地域国家論」

地域国家論―新しい繁栄を求めて
地域国家論―新しい繁栄を求めて

2001年の「新・資本論」

大前研一「新・資本論」―見えない経済大陸へ挑む
大前研一「新・資本論」―見えない経済大陸へ挑む

そして、2006年の「新・経済原論」

大前研一 新・経済原論
大前研一 新・経済原論
大前 研一, 吉良 直人

確かにマンネリも多いが新たな知見は多々、ある。
今回の魅力は「企業参謀」を「古典」とみなし
新たな知見を加え、再定義しているところが魅力的である。

昨年、インドネシアの旅行で
大型書店で本書が洋書で山積みされているのを見た時、
アジアの経済のグールーであることを実感した。

この地域経済とボーダレスエコノミーの物語に先見の明が見出せるのであろう。
posted by Kohei Ishikawa  [ 未来学 ]  comments(0) trackbacks(1)

TITLE : 合否の発表 選ばれ続ける存在

ワールドカップのニュースを見ていて思ったこと。

やはり
「合否」
というのは人生にとって節目になる。

入試の   「合否」
入部の   「合否」
告白の   「合否」
プロポーズの「合否」
入社の   「合否」
営業コンペの「合否」

ん?他にもあるかな。

巻選手だっけ?(サッカーはあまり詳しくないので)
「選ばれた人もいれば、落ちた人もいるから精一杯やりたい」
というのはまさに名言だと思う。

なんにせよ、合格になれば嬉しい、不合格になれば悲しい、という
なんてわかりやすい社会システム。
合格は勝ち組、不合格は負け組という烙印を押された気になる

ただ、成功を勝ち取る「合格」を得ている人には共通したものがある。
それは過去の不合格から多くのものを学んでいるという点だ。

また、私たちは道を選んでいるように感じるが、
実は私たちは道の先にいる人によって、選択されているのである。

今さら、当たり前のことを何を理路整然と言うのか、
と思う人もいるかも知れないけれど、
案外、この競争原理に気づいていない人が多いのではないかと思う。
むしろこの競争原理を知り尽くしている人だけが、合格し続ける。

「ナンバーワンよりオンリーワンだ!と叫んで、
自らのスペシャリティを勘違いし、一つのことに固執する。
結果だれからも選んでもらえない存在になる。

そんなケースが最近の若者には多いんじゃないか?」みたいなことを
みのもんたが言っていた。

選ばれる人には理由がある。
その理由を掘り下げて、他人から価値のある存在だと認めてもらうために
一つ一つの能力を開発するプロセスを掘り下げる。
その中から日々の努力によって、
自らの能力を開発できる人が選ばれ続ける。
posted by Kohei Ishikawa  [ 未来学 ]  comments(0) trackbacks(0)

TITLE : 携帯メディアから見る今後のブログメディアの在り方



最近、ブログを書くために発想を記録、蓄積するために
無印良品で販売されている文庫本ノートを活用するようになりました。

文庫本と同じ質の紙なので
携帯性と耽美性を備えている点が魅力的です。

ノートパソコンよりもパーソナルノートを使って
いかに情報を編集するか、が
今後のブログのありかたになってきているような気がします。

アメリカのブログの歴史は
主にジャーナリズムを中心に発展したそうですが
日本は「日記」という認識が強いようです。
日本の場合、出版文化が根強いため、
E-BOOKは普及せず、紙ベースでサイトを出版するケースが
(電車男、真鍋かをりココだけの話等)増えているのも事実です。

私の中で日本のブログの在り方でお手本になるのは
まず間違いなく松岡正剛氏の千夜千冊です。
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya.html

松岡正剛氏が1000日に1000冊の書を読み、
書評を書いた本サイトは量と質ともに群を抜いています。
そして、またキーワードがセマンティックにリンクされているため、
400万字という空前のコンテンツが織りなす
「編集美」に飽きることはないでしょう。

では、なぜこのようなコンテンツを作ることができるのかと考えると
もとより「書を読み解くというアナログの能力」が
身に付いているからである、と思います。

それでは、アナログの能力とはなんなんだ!?という話になりますが
それこそが身体知であります。

身体知とは体を使い込んでいく中で得られる知恵のことを言います。
例えば、泳ぐことや自転車に乗ることは、
一度出来るようになってしまえば、
たとえ何年やってなくても出来なくなることはありません。
これは、体で憶えたこと、つまり「身についた」ことだからです。

「書を読み解く」という行為は非常に体力と集中力が必要となる作業です。
そして、それに対する高い関心を維持し続けるのも難しいでしょう。

言語の世界に「ネイティブ」という言葉があるように
「リーディングネイティブ」
「ライティングネイティブ」
というものもあるというのが私の持論です。

ポテンシャルありきと言ったら、それまでになるのかも知れませんが
それをいかにしてトレーニングするか、が
誰もが頭を悩ませるのではないかと思います。

明日は、それについて考えてみたいと思います。

posted by Kohei Ishikawa  [ 未来学 ]  comments(0) trackbacks(0)

TITLE : フラジャイル〜弱さからの出発〜

フラジャイル―弱さからの出発
フラジャイル―弱さからの出発
松岡 正剛

概ね良好な日々だ。

最近は、本当に色んな魅力を持った友人に恵まれて誇りに思う。

そんな中でも何もできない自分がいるわけで、
これからエンドレスに続けなくてはいけない
『努力』に一抹の不安を覚えたりもする。

色んな人に会ってきた中でも
『多くの価値観を許容できる人』
『感情が常に安定してる人』
『人の立場になって物事を考えられる人』 
に尊敬の念を抱いていることに気づいた。

そういえば、いつしか書いたな。
人から評価されたい、と思うことは大事であると思うけど
それのみに終始して
やるべきことができなくなっている人に出会ったことがあった。
僕自身も実際、そういう時期もあったわけであるが。

最近、『お前のことを利用してやるぞ!』って人によく会う。
なぜかはわからないけど。
『そういう人は評価されたいんだろうなぁ。若いなぁ。』って思う。
『若さ』って言うのはたぶん自分だけしか見えてない時期なんだろう。

そんな中でも何度か失敗を繰り返して
自分の『弱さ』を知った時から始まるんじゃないかな。
posted by Kohei Ishikawa  [ 未来学 ]  comments(0) trackbacks(0)

TITLE : 動き出したリアル

ここ一ヶ月間、かなりヘコんでる日々でした。
今までの自分のやってきたことが評価されない時期。
やる気も下がる、下がる、で
どこかへ風船のように飛んでいきそうでした。

よくこのブログでも話す
『高みを目指す』必要なんてあるのかな、と。

そんな中、極東学園天国やらを読んで気分を盛り上げていました。
極東学園天国 4 完 (4)
極東学園天国 4 完 (4)
日本橋 ヨヲコ

特に今年は大好きなサークル活動が自由にできない年だったので、
自分でやりたいことも制限した浪人生のような生活でした。

かなり疲れたね。でも、頑張った。それでいい。
結果は後からついてくるはず・・・。

皆さんも、それぞれ大変なことがあると思いますが
詰まった時は大事マンブラザーズの『それが大事』を聞いて
気分を盛り上げてみて下さい。

ところどころで詰まるところもあったけれど、
一番、支えになったのは井上雄彦の『リアル』
リアル (4)
リアル (4)
井上 雄彦

とにかく人間臭い作品が好きになった。
おじさんになったんだろうか・・・。

もうスラムダンクで言うなら、
5ファール退場で縮こまる亀の桜木ような生活が終わるかと考えると
ずいぶんと気が楽になりますわ。
ある種、自由と共に責任が生まれることに喜びも覚えつつ・・・。

僕は1月31日付で別府を去ります。
今まで、色々と迷惑をかけた皆さん、ありがとうございました。

とりあえず、2,3月は東京で働いてます。

次なるステージを、ということで。
posted by Kohei Ishikawa  [ 未来学 ]  comments(0) trackbacks(0)

TITLE : ニートって便利だな!働かけない若者たち。

「ニートって便利だなっ!」

僕の友人の口癖である。
その意図は全く不明だ。('ー`)ノハハハ

13歳のハローワーク
13歳のハローワーク
村上 龍
ニート―フリーターでもなく失業者でもなく
ニート―フリーターでもなく失業者でもなく
玄田 有史, 曲沼 美恵
NEET(Not in Employment, Education or Training)

最近はすっかり就業能力を失ったことを埋めるための書籍が
かなり売れ行きが上がっていることは言うまでもない。

ニートとは就業、就学、職業訓練の
いずれもしていない人を指す概念である。英国で名づけられた。

↓はてなダイアリーより転載

現状のほとんどの就業支援策から事実上排除された存在であり、
求職もしないので失業者としても
カウントされずつかみどころのない存在。
小杉礼子・労働政策研究研修機構研究員の研究によると
2000年国勢調査を基に15才から34才のニートは
日本で76万人ほどいると推計されている。
同年代の失業者は146万人とされているので問題の大きさがわかる。
フリーターでも、失業者でもなく、
働くという意味での社会参加の意欲を喪失し孤立化しており、
社会問題化しつつある。
2004年の労働経済白書によれば、
求職せず通学もしないため社会問題になっている「若年無業者」は、
2002年が日本全国で48万人、2003年が52万人と集計されている。

ニートについて、玄田有史氏(東大助教授)と重松清氏(作家)の
対談記事を掲載。
以下、引用するが、玄田氏の発言(P.51)に、
「(前略)彼らは人生を放棄していない。
むしろ人生にこだわりが強すぎるほどです。
もっといい加減でいいんじゃないかと思えるくらいに。」
というものがある。
また、重松氏の発言(P.51)に、
「(前略)ニートとは、前に一歩進むためのエンジンが
エンストを起こしている状態なんだという認識を定着させておかないと、
本当に自殺が増えてしまうと思います。」


最近、ニートという概念自体が
誤った使われ方をしている気がしてならない。

「リストラ」「ひきこもり」「フリーター」「オタク」といったような
コトバ達もマスメディアと共に社会的嫌悪感を含んで
人々の間に普及されてきた過去があった。

そのくせ、フリーエージェントという概念は全く普及していない。
同じく玄田教授が翻訳した書籍であるのに関わらず、
社会的問題という興味が出なければ
社会的に普及しないというのも少し悲しい。

「リストラ」というコトバは
リストラクチャリングというコトバの略であって
事業再構築という意味を含み、リエンジニアリングと並ぶ
優れた経営手法のことである。

しかし、いきなりクビになった、とか
リストラが原因でお父さんが自殺したとかマスコミが煽るニュースを
流したことによって、社会的にはマイナスなイメージになった。

この新しい職業像や概念像は
常に社会からは白い目で見られるのだろうか。

そもそも誰もニートの存在を「悪」とは言っていない。
失業者も悪ではない。フリーターも悪ではない。

確かに社会問題であるが、問題=悪ではないのだ。

生産的か、非生産的であるか、と聞かれたら
非生産的であるが、非生産的であることは悪ではない。

むしろ、これらの人間像を浮き上がらせてしまった
社会システムをいかにして見つめなおすかを自分の頭で考えたほうがいい。

流行に乗って、
間違ってもフリーターはダメだ、
なんて短絡的な議論は辞めておいたほうがいい。

働いたことのない学生は
玄田教諭の仕事の中の曖昧な不安でも読めば
少しはことの真相が理解できるかもしれない。

僕の大学の先輩も今年の四月から働き
もう離職してしまった人が数人いる。

大卒離職率30%の悲劇ってやつだ。


仕事のなかの曖昧な不安―揺れる若年の現在
仕事のなかの曖昧な不安―揺れる若年の現在
玄田 有史

以前にも載せたが、
玄田教授の「働くことの悲しさ」というエッセイは
稀に見る名文なので、また載せることにした。

労働経済学の先人からの学生たちへのエールとして
いつもこの文章には勇気付けられる。

また、議論が進展したら載せようと思う。

2002年12月10日

働くことの悲しさ
 フリーターをこれまで長年調査し続けてきた教育社会学者を中心とする研究グループが一冊の本を刊行した。そのタイトルは『自由の代償/フリーター−現代若者の就業意識と行動』(小杉礼子編・日本労働研究機構)という。
 『自由の代償』はフリーターを含む若者へ詳細なアンケートとインタビューから構成されている。それを読むと、フリーターの特徴とは「やりたいこと」志向の強さにあることがわかる。フリーターをそうでない若者と比べると、「若いうちは仕事よりもやりたいことを優先させたい」とか、「やりたい仕事なら正社員でもフリーターでもこだわらない」と答える割合がきわめて高い。やりたいことがみつかって、はじめて本気で働こうという気持ちが生まれるというのだ。
 たしかに学校を卒業もしくは中退して働き出すと、なかでも会社勤めなんて始めると、やりたくことないことだらけの毎日である。正社員でも、アルバイトでも、パートタイムでも、派遣でも、やりたくないことどころか、イヤなことは、山ほどある。無理なノルマ、長時間のサービス残業、セクハラまがいの扱い。まわりに抑うつ症状の人たち。不況のなか、どんどん高まる不安感や緊張感。わずかな給料では「やってられない」現実。成果を挙げれば給料は上がるというが、多くの人の給与は働いても、働いてもほとんど上がらない。サービス残業はすればするほど、実際の時給を下げていく。会社の正社員になって働くとなれば、学生時代に比べると、イヤなことがまちがいなく100倍は増える。働くことが楽しい、充実している、なんていえる人は、ごく一握りしかない。シンドイ就活(就職活動)は、何のためにしたんだろうと、思いたくもなる。
 だから、なぜ働かないといけないのか、特に正社員なんて、なぜならないといけないのか、ときかれれば、ハッキリとした答えなんてないというのが、本当ではないだろうか。しかしだからといって働かないことを選択すれば、そのうちかならず飽きてくるのも事実だ。やりたいことをやりたくてフリーターをしていても、結局はやりたいことなんてみつからない。むしろフリーターは2年以上続けると、やめたくなっても抜け出せなくなるというのが現実である。

 働くことには、そのほとんどがやりたくないことだという悲しさがある。それと同時に、もう一つ別の、そしてもっと深い悲しさが働くことにはつきまとう。それは、自分には能力がないのだという圧倒的な現実を思い知らされることである。学生時代には試験でも部活動でも、なんらかのかたちで自分の実力を評価される。学校を出てから働かないことを選択すれば、社会のなかでの自分の能力の低さに直面する機会に会わなくてもすむ。ところが働くとそうはいかない。
 働けば、自分の能力の限界という不幸をつねに感じる。仕事がうまくいかないのは、場合によってはまわりのせいでもあるが、結局はほとんどの場合、自分の実力がないからだという否定しようのない事実を、ほとんどの人がつきつけられる。職探しをすれば、一部の例外的な人を除いて、能力の足りなさから「残念ながらわが社とはご縁がありませんでした」といわれてしまう。働くと、能力がないことを自分自身で知ると同時に、力を発揮したときでもそれを正確に認められず、満足のいかない評価にさらされなければならないときだってある。自分は自信をもってやった仕事なのに正確に評価されないことが続けば、本当は自分の能力がないのではないかと、追い詰められた気分にもなってくる。働かなければ、そんな自分の無能の感覚を持たなくてもすむ。働くなんて、バカらしいではないか。そこまでして働く必要なんてどこにあるというのか。
 しかし、働いて自分に能力のない不幸を実感したことのない人こそ、本当に不幸である。自分の無能の現実を知らないで生きることの空しさ、その空しさのなかでジタバタする、言葉にならない感覚を、働くことを拒否した人は知ることはできない。能力の限界に向かい合いながら、なんとかつらい仕事を仲間と仕上げ、その後でみんなで「やれやれ」と飲むビールやワインの味は、仕事をせず、日がな一日ボーッと暮らして飲むときとは比べものにならない。そして自分の力の限界を知る人だけが、働くなかで自分以外の力によって何かが成し遂げられる瞬間があることを知る。その自分以外の力は、多くの場合、自分のまったく予想していなかった偶然というかたちでしか訪れてくれない。しかし、働くことのなかにある「偶然」をバカにしてはいけない。ほとんど偶然としか言いようがない、自分の能力を超えて何かが出来てしまった感覚。自分にとって、あまりにタイミングのいい偶然。それによって突然、自分の目の前が開けてしまう感覚。偶然という自分を超えた存在だけが、本当の自分の可能性を感じさせるのだ。働いてみないと、そんな偶然はやってこない。

 内田樹氏は著書『期間限定の思想−「おじさん」的思考2』(晶文社)のなかで、仕事をするとは「他者を目指して、パスを出す」だと書く。たしかに働いていると、自分の目の前に奇跡のようなパスが出されることがある。それは別にジダンやフィーゴなど、スーパースターだらけのレアル・マドリードのサッカーでなくてもそうだ。パスを受けてシュートして、外してしまうことも多いのだが、決まることだってある。凄いパスを受けた感触が自分もいいパスを出したいという気持ちにつながっていく。本当の自分の可能性なんて、自分自身は知らないと思ったほうがいい。経済学の理論モデルの多くは、働く本人は自分の能力や意欲を理解しているが、会社は理解していないという情報の非対称性を前提にする。しかし本当は、本人だって自分のことなんてまるっきりわかっちゃいない。日々の仕事のなかで痛感する現在の自分の限界や、ときにそれを乗り越えさせてくれる自分以外の何かに触れることだけによって、はじめて本当の自分、本当に自分がやりたいことが、うっすらと見えてくるものなのだ。

 フリーターは、「やりたいことがみつからないと働けない」という。しかし、それはまちがっている。「働いてみないと本当にやりたいことはみつからない」のだ。夏目漱石は『私の個人主義』と題された講演のなかでこう述べた。「自分の個性が発展できるような場所に尻を落ち着けるべき、自分とぴたりとあったしごとを発見するまで邁進しなければ一生の不幸である」。しごとに尻を落ち着けてみようとしないかぎり、ぴたりとあっているかはわからない。ぴたりとあった瞬間、はじめて自分の個性は何かがわかる。
 私は、仕事のささやかな悦びとは、回転寿司のようなものだと思っている。目の前に流れるネタはかならずしも自分が一番食べたいものではない。しかしときどき「おっ!」という皿が回ってくる。それにありつくには、まずは席に座っていなければならない。自分の前に回ってきたら、自分の意志で手を伸ばさないといけない。そして一度手に取った皿は返してはいけないのも、回転寿司のルールである。もちろん、一流の寿司屋のカウンターで注文しながら食べる寿司のような満足の高い仕事もあるだろう。しかし、回転寿司も実はなかなか案外にイケルのである。
posted by Kohei Ishikawa  [ 未来学 ]  comments(1) trackbacks(0)

TITLE : 都市は生きている



今まで自分が学んできたことに迷いがあった。
特に自分一人だけで勉強しているので
果たしてこの方向性は合っているのか。
誰にも相手にされなくなるんじゃないか。
とてつもない不安に襲われていた。

だけど、最近になって
やっと今までの断片的な知識が
数珠つながりになって、
一貫性を持った知識へとなりつつあると実感する。

最終的に、自分が身を埋める地は
恐らく横浜になると思う。

その横浜に地に帰るに当たって
多くの異文化を学んできたつもりだ。

都市に生きる役割を知ること。

人間が住む地域でいかなる役割

役割を果たすことが
その地で生きることではないかと思う。

僕は横浜で学生として生きることを選ばなかった。

横浜で市民として生きることを、
別府や京都をお借りして勉強させていただいた。
本当に地元市民の人には感謝している。

またブログをいつも呼んでくれている方々にも
叱咤激励含め、多大なる感謝をすることを
ここに表します。

ありがとう。
posted by Kohei Ishikawa  [ 未来学 ]  comments(0) trackbacks(0)

TITLE : わがままになるのが怖い奴に宇宙は拓けない

プラネテス (1)
プラネテス (1)
幸村 誠
プラネテスからの引用。
宇宙を目指す者は、いかなる他者からの批判を受けても、
自分を持ち続けなければならない、と。

この作品の中に登場するロック・スミスは
感情を外に出さず、「悪魔的」に仕事をする。

以前にも書いたが、人間性がある=いい仕事をする わけではない。
あまりにも厳しく鋭い批判を受けると人間は戦意喪失してしまう。
しかし、立ち直る手段はわからないが
それにビクともしない態度で応戦できるのは、
まさにデモニッシュ(悪魔的)な仕事なわけである。

特に、管理職、政治家など、
人を動かす職に就くもののストレスは尋常でない。

多くの批判された時に、自分を貫く勇気が欲しい。
特に政治的な要素になると、えげつない実弾攻撃を受けることがある。
加治隆介の議 (1)
加治隆介の議 (1)
弘兼 憲史

「加治隆介の議」の中では
加治が地元の鹿児島の国民から反感を買い、
トマトを投げつけられるシーンがある。

加持隆介の議(論理)
多くの政治家は地元の国民のことしか考えない八方美人な政策を作るので
結果、国のためにならない。多少、地元で痛みは感じても
全体最適で国民のことを考えないといけない、ということを主張する。

トマトを投げつけられても、ひるまず主張をする加持のシーンは
本作品の中でも印象に残るシーンである。

たとえ、人から批判されようと
自分を貫ける意志を持ちたいもんだ。

だから、人間性=人間くさいわけではない。
いちいち出来事に一喜一憂して、必要もない嫉妬、うらみ等を
仕事に挟むのは生産性が下がることは言うまでもない。

あくまで仕事の基本は「生産性」なのである。

生産性の高い「わがまま」はリーダーシップなのであるわけだ。
posted by Kohei Ishikawa  [ 未来学 ]  comments(0) trackbacks(0)

TITLE : 水もしたたる国家論「AKIRA」

12歳の時に大友克宏の
「AKIRA」
13歳の時に士郎正宗の
「攻殻機動隊」
に打ちのめされたことは以前にも書いたと思う。

最近では「イノセンス」やら「スチームボーイ」等で
注目されがちな気鋭のクリエーター陣だが、
むしろ僕の世界観は「AKIRA」の段階で退廃的なものになっていた。

Akira (Part1)
Akira (Part1)
大友 克洋

当時、大友克洋の画力に崇拝を感じ幾度と無く彼の絵を模写した。
やがて、コンピューターグラフィックが導入されると同時に
彼の絵は事実上、神の領域に達した。

最近、GANTSという漫画でCGを使った背景が多数利用されているが、
大友の背景と比較すると、いかに退廃的であるかがわかる


現在、シムシティをやっていると
構築のアンチテーゼとしての破壊という楽しみ方もあるが
それは都市構築の上での最も幼稚な行為である、と思う。

簡単にいうと、シムシティでは
都市を破壊するという神様モードがあるのだが
これほど頭を使わない幼稚な遊びはない。

究極の遊びとは文化を構築してこそである。

だと、するならば「AKIRA」の世界観は
破壊しかけた宙ぶらりんな世界を構築するという
究極の遊び感覚を持った世界観なのである。

当時、少ない小遣いから絞り出した「AKIRA」への投資は
何よりも得たものが大きかったと今になって思う。
松岡正剛先生的解釈
posted by Kohei Ishikawa  [ 未来学 ]  comments(0) trackbacks(0)

TITLE : 理想という名の現実

りそう【理想】
(1)考えうるかぎり最もすばらしい状態。最も望ましい姿。
  行動の目的となって現実に意味を与える。⇔現実
 「―の男性」「―が高い」
(2)〔哲〕〔ideal〕物や心の最も十全で最高の形態。ふつう現実的具体的なものの対極ないし究極として、知性ないし感情の最高の形態とされる。実現可能な相対的な理想と、到達不可能な絶対的な理想(神・永遠・最高善など)とに区別でき、後者は超越的・規制的なものであり真の理想といえる。

げんじつ【現実】
(1)今、現に事実として存在している事柄・状態。⇔理想
「きびしい―を直視する」「理想と―との違い」「―に起こった事件」
(2)〔哲〕 現に事実として与えられていること。また、そのもの。
(ア)理想に対してその素材や障害となる日常的・物質的なもの。現状。⇔理想
(イ)現に存在し活動するもの。想像・虚構や可能性ではなく、現に成り立っている状態。実際の存在。実在。
(3)実現すること。「光明より流れ出づる趣味を―せん事を要す/野分(漱石)」


果たして「真実かなんぞや」という話になったら
それこそ思想的な話になってしまいます。

しかし「認知限界」という言葉がある中でメディアは存在するのであって、
理想という立場から真実は創造される。
簡単に言うと、
認知することには限界があるなかで「真」を決めなくてはならない。。

問題解決の基本として、
最高でも全体の60%の情報量を40%の時間で探して意志決定せよ


つまり、残りの40%の情報は自分で推移し
残りの60%の時間で論じ、実行せよ、と。

これが推論の本質ではないかと。

論理的に物事を判断することが判断力につながる。
そう考えると、物事がウソかマコトか判断するのは
それを認識する他者に依存します。

真実を解剖するのがメディアであるのだとしたら、
悲しき現実を映し出すメディアは恐らく真実なのではないでしょうか。

そろそろこのウェブログを現実的なウェブログにしていきたいのですが
ウェブログの特徴として
「常に理想的な話になりがちである」という課題があると思います。

そう考えると現実はどこにあるのでしょうか。
posted by Kohei Ishikawa  [ 未来学 ]  comments(0) trackbacks(0)